2015年03月29日

【写真特集】美しすぎるロシアの妖精マリア・シャラポワ スリーサイズはバスト86-ウエスト60-ヒップ89 cm



女子テニスのマリア・シャラポワ(Maria Sharapova、ロシア)がコート外でも活躍する様子をまとめた。

★マリア・シャラポワ
マリア・シャラポワ(Maria Sharapova, ロシア語: Maria sharapova.ogg Мари́я Ю́рьевна Шара́пова, 1987年4月19日 - )は、ロシア・西シベリアに位置するチュメニ州ハンティ・マンシ自治管区・ニャガン市出身の女子プロテニス選手。これまでにWTAツアーでシングルス29勝、ダブルス3勝を挙げる。自己最高世界ランキングはシングルス1位。ダブルス41位。

史上10人目の生涯グランドスラム達成者。グランドスラム優勝5回,準優勝5回。2004年WTAツアー選手権優勝。ロンドンオリンピック銀メダリスト。

マリア・シャラポワ Maria Sharapova


基本情報


ラテン文字名
Maria Sharapova

フルネーム
Marija Jurjevna Sharapova

国籍
ロシア

出身地
同・チュメニ州
ハンティ・マンシ自治管区
ニャガン

居住地
アメリカ合衆国・フロリダ州

生年月日
1987年4月19日(27歳)
●Maria Sharapova measurements
Body shape: Banana (explanation)
Dress size: 2
Breasts-Waist-Hips: 34-24-35 inches
スリーサイズ バスト86-ウエスト60-ヒップ89 cm
Shoe/Feet: unknown
Bra size: 32B
Cup: B
Height: 6’2” (188 cm)
Weight: 130 lbs (59 kg)
Natural breasts or implants? Natural

身長
188cm

体重
59kg

利き手


バックハンド
両手打ち

ツアー経歴


デビュー年
2001年

ツアー通算
32勝

シングルス
29勝

ダブルス
3勝

プロフィール
シャラポワは華やかな容姿とプレースタイルに加えて、4大大会の女子シングルスで生涯グランドスラムを達成した実力も備える数少ない女子テニス選手の一人である。2004年のウィンブルドンで17歳にして初のグランドスラム優勝を挙げ、一夜にして世界的名声を得た。ベースライン・プレーヤーで、恵まれた体格を生かした強烈なサーブとストロークを武器に、強力なパワーテニスを展開する。身長188cm、体重59kg。左利きだったというが、矯正で両方使える。バックハンド・ストロークは両手打ち。

両親はベラルーシ・ゴメリの出身。父はユーリ・シャラポフであり、ロシア語圏では男性名詞・女性名詞に苗字が分かれており、女性名詞では『シャラポワ』男性名詞では『シャラポフ』である。ベラルーシ人の両親の間で生まれたシャラポワは、ロシアで生まれたためにロシア人扱いになっている。2010年10月にNBAのロサンゼルス・レイカーズに所属するサーシャ・ブヤチッチと婚約したが2012年8月に解消したことを明らかにした。

1986年に起きたチェルノブイリ原発事故の影響により、両親がロシア・西シベリアにあるニャガンへ移住を決意する。マリアは4歳の時からテニスを始め、6歳の頃マルチナ・ナブラチロワに才能を見出され、フロリダ州のニック・ボロテリー・テニスアカデミーへの入学を勧められる。7歳の頃父親とともに渡米したが、アカデミーの入学資格は8歳以上だった為に入学できなかった。また、高額の入学金、授業料を捻出する為に父のユーリは2年間アメリカで働き続け、シャラポワは個人コーチのもとで練習を続けた。シャラポワが9歳の時、再びアカデミーを訪れ入学テストを受けると、その類稀な才能を目にしたニック・ボロテリーにより特別奨学生としての入学を許可された。

使用ラケットは、ジュニア時代からプリンスだったが、ヘッドに契約を変更し、ウェアとシューズは一貫してナイキ。ツアー経歴を通じて日本のトーナメントと相性が良いことから、日本好きで有名である。松岡修造とジュニア時代から親交があったが、とんねるずのTV番組で、松岡に「野獣のような叫び声」と言われ機嫌を損じ、以来、不仲を伝えられる。好きな日本食はしゃぶしゃぶと抹茶アイス。2011年よりフィジカルトレーナーは日本人の中村豊が担当。

選手経歴
シャラポワは2001年4月19日、14歳でWTAツアーにデビューした。1年後の2002年4月21日、草津国際女子オープンテニス大会で中村藍子に 6-4, 6-1 のストレート勝ちを収め、プロ選手としてのトーナメント初優勝を果たす。シャラポワ本人も「草津でのツアー初優勝は私の原点」と常々語っているという。その後ITFのサーキット大会で、さらに2つの優勝を加えた。

シャラポワが世界的な知名度を獲得したのは、2003年ウィンブルドンの4回戦進出であった。ワイルドカード(主催者推薦)で出場した彼女は、3回戦で第11シードのエレナ・ドキッチ(当時セルビア・モンテネグロ国籍)を 6-4, 6-4 のストレートで圧倒した後、続く4回戦で同じロシアのスベトラーナ・クズネツォワに 1-6, 6-2, 5-7 で敗れた。同年10月のジャパン・オープンにおいて、シングルスとダブルスでWTAツアー初優勝を果たす。シングルス決勝ではアニコ・カプロス(ハンガリー)に 2-6, 6-2, 7-6 で競り勝ち、ダブルスでもタマリネ・タナスガーン(タイ)とのコンビで優勝した。

2004年、シャラポワは全仏オープンでパオラ・スアレス(アルゼンチン)との準々決勝に進出した後、ウィンブルドンで4大大会初優勝を飾った。第13シードから勝ち上がった彼女は、決勝でセリーナ・ウィリアムズ(アメリカ)を 6-1, 6-4 のストレートで圧倒した。17歳2ヶ月でのウィンブルドン女子シングルス優勝は、1997年に「16歳9ヶ月」で優勝したマルチナ・ヒンギスに次ぐ大会史上2番目の年少優勝記録である。18歳未満の選手が4大大会女子シングルスを制したのも、1999年全米オープンに17歳11ヶ月で初優勝したS・ウィリアムズ以来であった。続く全米オープンでは、3回戦でマリー・ピエルス(フランス)に敗退した。10月のジャパン・オープンには第1シードとして出場し、決勝でアメリカのマショーナ・ワシントン(マラビーヤ・ワシントンの妹)に 6-0, 6-1 のスコアで圧勝し、大会2連覇を達成した。この日(10月9日)は台風22号が関東地方を直撃したが、例年より多い約9000人の観客が来場したことから“シャラポワ効果”という言葉で表現される場合もあった。女子ツアー年間最終戦・WTAツアー選手権でも初出場で初優勝を飾り、セリーナ・ウィリアムズに 4-6, 6-2, 6-4 の逆転勝利を収めた。

2005年は、2月に東京体育館で開催された東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント決勝でリンゼイ・ダベンポートを破って初優勝を果たし、好調なスタートを切る。しかし、ウィンブルドンでは準決勝でビーナス・ウィリアムズに 6-7, 1-6 で敗れ、大会2連覇はならなかった。同年8月22日、ロシアの女子テニス選手として史上初の世界ランキング1位になる。

2006年全米オープン優勝
2006年には、東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント準決勝で実現したマルチナ・ヒンギスとの初対戦が大きな話題となり、シャラポワは当年度から現役復帰したヒンギスに 3-6, 1-6 で敗れた。この年の全米オープンで、彼女は2004年ウィンブルドン以来の4大大会決勝戦に進出し、ジュスティーヌ・エナン=アーデン(ベルギー)を 6-4, 6-4 で破って2冠を獲得した。

2007年の全豪オープンで、シャラポワは初めて決勝戦に進出したが、世界ランキング81位のノーシードから勝ち上がったセリーナ・ウィリアムズに 1-6, 2-6 で完敗し、ここでは準優勝に終わった。この後全仏オープンで初の準決勝に進出し、アナ・イバノビッチ(セルビア)に 2-6, 1-6 で敗れた。また、全米オープンでは3回戦でアグニエシュカ・ラドワンスカ(ポーランド)に不覚を取り、あっさりと大会連覇を逃してしまう。ツアー年間最終戦のWTAツアー選手権では、3年ぶり2度目の決勝戦でジュスティーヌ・エナンに 7-5, 5-7, 3-6 で敗れた。

2008年の全豪オープンで、シャラポワは2年連続2度目の決勝でアナ・イバノビッチを 7-5, 6-3 のストレートで破り、初優勝を飾った。本大会ではリンゼイ・ダベンポート、エレーナ・デメンチェワ、ジュスティーヌ・エナン、エレナ・ヤンコビッチの強豪を圧倒し、全試合ストレート勝ちで優勝を決めた。これでシャラポワの4大大会優勝も3勝目となり、あとは全仏オープンを残すのみとなる。しかし、2008年はふくらはぎや右肩など多くの故障に悩まされた年でもあった。5月14日にエナンが世界1位のままで現役引退を表明したことから、翌週にシャラポワが世界1位に返り咲いたものの、全仏オープンは4回戦敗退に終わり、ウィンブルドンにいたっては2回戦で姿を消してしまう。7月末のロジャーズ・カップ3回戦敗退の後、彼女は長期間の戦線離脱を余儀なくされ、北京五輪への出場も断念した。

2009年3月前半のBNPパリバ・オープンで、シャラポワはエレーナ・ベスニナ(同じロシアの選手)とのダブルス戦に出場し、8ヶ月ぶりにツアー大会へ復帰した。1年ぶりの4大大会出場となった全仏オープンでは、2年ぶりの準々決勝でドミニカ・チブルコバ(スロバキア)に 0-6, 2-6 のストレートで完敗した。

2009年10月3日、シャラポワは東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメントのシングルス決勝で第7シードのエレナ・ヤンコビッチ(セルビア)と対戦する。第1セット途中(5-2)にヤンコビッチが棄権したため、シャラポワは2005年以来4年ぶり2度目の優勝を果たした。前年優勝者として出場した2010年の大会では主催者推薦出場のクルム伊達公子に 5-7, 6-3 , 3-6 で敗れ初戦で敗退している。

2011年5月のBNLイタリア国際でシャラポワは決勝でサマンサ・ストーサー(オーストラリア)を 6–2, 6–4 で破り約1年ぶりのツアー23勝目を挙げた。全仏オープンでは4年ぶりのベスト4に進出したが準決勝で優勝した李娜(中国)に 4-6, 5-7 で敗れ全仏初の決勝進出を逃した。ウィンブルドンでは決勝に進出したが、ペトラ・クビトバ(チェコ)に 3–6, 4–6 で敗れ7年ぶりの優勝はならなかった。

2012年全豪オープンでも決勝に進出したが、ビクトリア・アザレンカ(ベラルーシ)に 3–6, 0–6 で敗れ4年ぶりの優勝を逃した。全仏オープンでも決勝に進出しサラ・エラニ(イタリア)を 6-3, 6-2 で破り史上10人目のキャリアグランドスラムを達成した。大会後のランキングでは4年ぶりに1位に返り咲いた。7月のロンドン五輪で五輪に初出場し、開会式ではロシア選手団の旗手を務めた。シングルスでは準決勝で同じロシアのマリア・キリレンコを 6-2, 6-3 で破って決勝に進出した。決勝ではセリーナ・ウィリアムズに 0-6, 1-6 で完敗したが初めての五輪で銀メダルを獲得した。

他の活動
シャラポワはテニス選手のみならず、ファッションモデルとしても多方面の活動を繰り広げており、女子スポーツ選手としては世界トップの収入を誇る(スポーツ選手長者番付)。

2007年2月14日、シャラポワは国際連合開発計画親善大使に就任し、チェルノブイリ原発事故後遺症に苦しむ祖国ロシア・ベラルーシ・ウクライナの8つの若者支援プロジェクトに自身の基金から10万ドルを寄付すると発表した。

2011年の東レ・パンパシフィック・オープンでは、東日本大震災で被災した福島県の中高生を招き、激励している。

プレースタイル
強く深く角度のあるフォアハンドとバックハンドを持つアグレッシブベースライナー。[2] WTAでは珍しくリバースフォハンドをよく使う。長身を活かしたボレーも強力。
posted by kifemale69 at 21:02| Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月14日

五輪金メダリストの荒川静香さん(33)が華麗に足を高々と上げ西武プリンスドームで始球式

荒川静香さん、華麗に足を高々と上げ始球式…スタンドどよめく

荒川静香.jpg荒川.jpg
左は始球式              右は往年の  荒川静香さん
現役時代よりも足がピンと上がり美しいですね。

 オープン戦(14日、西武−巨人、西武プリンス)西武プリンスドームに名称変更後初試合の始球式を、プリンスホテル所属のプロフィギュアスケーター・荒川静香さん(33)が行った。

 西武戦の始球式はトリノ五輪で金メダルを獲得した直後の2006年開幕戦以来。娘の誕生日(11月6日)にちなみ背番号「116」のユニホーム姿で、左手には「デコレーションしました」というど派手なグラブをはめて登場した。

 投球は惜しくもワンバウンドで、捕手を務めた西武・岡田のミットに収まったが、左足を高々と上げる投球フォームに、観客からは大きなどよめきが起こった。

 登板後は「西武プリンスドームに生まれ変わって、最初の試合での始球式を務められて光栄です。今日は足を高く上げる投法を意識して投げました。ワンバウンドしてしまったけど、球の方向性は良かったと思います」と満足げだった。

■フィギュアスケート女子で06年トリノ五輪金メダリストの荒川静香さん(33)がメモリアルピッチを行った。

 西武プリンスドームに名称変更後、初戦となった記念の一戦で始球式を務めた。背番号は昨年11月6日に生まれた長女にちなみ「116」を背負った。「朝の練習で左足を高く上げる投法をやってみて、本番でも行こうと」と星飛雄馬の大リーグボール1号のようなダイナミックなフォームでファンのどよめきを呼び、ワンバウンドで捕手の岡田のミットに収まった。

 4月25日に横浜市の新横浜スケートセンターで開幕する「プリンスアイスワールド2015横浜公演」で出産後、初のアイスショーに臨む。


★荒川静香
荒川 静香(あらかわ しずか、ラテン文字:Shizuka Arakawa, 1981年12月29日 - )は、日本のプロフィギュアスケーター。日本スケート連盟副会長(2014年9月 - )。
荒川 静香2.jpg
イナバウアー
主な競技成績は、2006年トリノオリンピック女子シングル金メダル、2004年世界選手権優勝、1998年長野オリンピック代表(13位)、2003年ユニバーシアード冬季大会・冬季アジア競技大会優勝、2004年GPファイナル2位など。

荒川 静香
基本情報

代表国: 日本
生年月日: 1981年12月29日(33歳)
出生地: 東京都品川区
身長: 166 cm
体重: 53 kg
元コーチ: ニコライ・モロゾフ
タチアナ・タラソワ
阿部奈々美[2]
エフゲニー・プラトフ
リチャード・キャラハン (2003-2004)
佐野稔 (2002-2003)
佐藤久美子
染矢慎二
長久保裕 (-1998)
元振付師: ニコライ・モロゾフ
タチアナ・タラソワ
エフゲニー・プラトフ
トーラー・クランストン
佐藤有香
佐藤久美子
阿部奈々美
所属クラブ: プリンスホテル
引退: 2006年5月7日
ISU パーソナルベストスコア
トータルスコア: 191.34 2006 トリノ五輪
ショートプログラム: 66.02 2006 トリノ五輪
フリースケーティング: 125.32 2006 トリノ五輪



獲得メダル


フィギュアスケート


オリンピック

金 2006 トリノ 女子シングル

世界選手権

金 2004 ドルトムント 女子シングル
人物

1981年(昭和56年)12月29日、東京都品川区にある関東逓信病院で生まれ、サラリーマンの父と幼稚園教諭の母のもと、神奈川県鎌倉市で育てられた。
名前の「静香」は、鎌倉に縁の深い静御前に因む。1983年(昭和58年)春、父親の転勤に伴って、1歳4ヶ月で宮城県仙台市に転居。

1993年(平成5年)、バブル景気期から急速に開発が進んだ同県利府町(仙台市のベッドタウン)に引越し、仙台市立台原小学校から利府町立しらかし台小学校に転校(6年時)。

1997年(平成9年)、県下ではアイスホッケーやフィギュアスケートが盛んなことで知られる東北高等学校(仙台市)に入学。2000年(平成12年)春、上京して早稲田大学教育学部に入学し、卒業後の2004年(平成14年)春よりプリンスホテル(東京都)に所属。2013年(平成25年)12月29日、自らの誕生日に一般男性と結婚したことを発表した。2014年11月6日に第1子(長女)を出産した。

公式サイト上には「出身地:神奈川県鎌倉市(出生地:東京都品川区)」と記載されているものの、乳児期から高校卒業まで宮城県仙台市および利府町という仙台都市圏(仙塩地区)で暮らしており、トリノオリンピック当時も実家は利府町にあったことから、マスメディアではしばしば「宮城県出身」あるいは「仙台出身」と紹介される。

荒川家は一般的なサラリーマン家庭で、費用が多く掛かるフィギュアスケートを続けていくために、母親が衣装を手作りするなどの両親の支えがあった。

海外メディアからは、ポーカーフェイスであることもあり「クールビューティー」と称されていた。日本での愛称はしーちゃん。尊敬するスケーターはクリスティー・ヤマグチと佐藤有香。
佐藤有香は1998-1999年シーズンの振付も担当している。
安藤美姫や恩田美栄、鈴木明子には特に慕われており、プライベートでも非常に仲が良い。2度にわたってオリンピック代表の座を争った村主章枝との間には確執が取り沙汰されていたが、トリノオリンピック中に一緒に食事をするなどし、和解が報じられた。

趣味はグルメで、フィギュアスケート界きっての大食漢であることが知られている。アイスクリームは好物であるがチョコミントアイスクリームだけは苦手としている。意外な趣味としてはバイク。2011年11月に大型二輪免許を取得している。愛車はヤマハ・XVS1300CAストライカー。シーズー1匹と3匹のカニンヘンダックスフントを飼っている愛犬家。

§技術・演技

スケーティングには重厚感と伸びがある。
競技では用いなかったものの、トリノオリンピックの公式練習では3回転ルッツ-3回転ループの2連続3回転や、3回転サルコウ-3回転トウループ-3回転ループ、3回転トウループ-3回転トウループ-3回転ループの3連続3回転を披露しているほか、練習では3回転アクセルや4回転トウループを跳んだこともあった。ジャンプの種類ではルッツを得意とする一方、フリップでは踏み切る瞬間にアウトサイドエッジに乗ってしまう「リップ」になりがちだった。

大きく上体を反らせた「レイバック・イナバウアー」は特徴的。トリノオリンピック後はものまねが流行し、2006年の新語・流行語大賞を受賞するまでになった。競技では決して加点されることのないイナバウアーを彼女が敢えて取り入れたのは、長野オリンピックで実際に見たスルヤ・ボナリーのバックフリップを見て大感動したからだった。禁止ワザで大減点されたにも関わらず観衆の大喝采を浴びたそのパフォーマンスを見て、ルールに縛られて自分らしさを失うより、人々の記憶に残るスケーターになりたいと強く思ったからだと語っている。
身体がとても柔軟で、ビールマンスピンの練習を始めたころは「体が柔らかすぎてグニャグニャなので、どこで止めるのかが難しい」と言っていた。

§経歴

§長野オリンピック出場
幼少時は水泳、体操、英会話、書道、そろばん、ピアノなど様々な習い事をしていた。なかでも3歳から始めた水泳では6歳までに全泳法を覚えたという。5歳のとき遊びに行った勝山スケーティングクラブでスケートに興味を持ち「ちびっこスケート教室」に入会した。
小学1年生のとき、オレンジワン泉(現・アイスリンク仙台)で長久保裕の指導の元、本格的にフィギュアスケートを始めた。小学3年生のときに5種類の3回転ジャンプをマスターし「天才少女」と呼ばれた。小学5年生で第1回野辺山合宿に参加[33]。小学6年生で初めての国際大会であるトリグラフトロフィーに出場し、優勝を果たした。

中学入学後は全日本ジュニア選手権で史上初の3連覇、全国中学校スケート・アイスホッケー大会でも同じく3連覇を達成した。中学2年生で出場した国際大会のネーベルホルン杯では3回転-3回転のコンビネーションジャンプを成功させてシニアの部で優勝。1997年、中学3年生でシニアの第65回全日本選手権に特例出場し、村主章枝に次いで2位に入る。同年の世界選手権の日本女子シングル代表枠は2枠だったが、荒川にはまだシニアでの実績がなかったためと、同回全日本選手権にケガで欠場した横谷花絵が特例で選出されたため、荒川の世界選手権入りはならなかった。

高校に入学し、シニアへ完全移行1年目の1997-1998シーズン、第66回全日本選手権でライバルの村主らと競り合う中で初優勝を果たし、1枠しかなかった長野オリンピックと1998年世界選手権の代表の座を勝ち取る。自身初のオリンピック出場となる長野五輪女子シングルでは、今上天皇・皇后観戦のもとで演技を行い、SPでは3回転ルッツ-3回転トウループのコンビネーションジャンプを成功させたが、フリップがダブルとなり14位。フリーではルッツが2回共2回転と失敗、最後の3回転トウループを転倒するなど本調子では無かったが14位、総合で13位に入った。しかし一方、同じく初の代表だった1998年世界選手権では、ジャンプミスが続いて総合22位に終わった。

1998-1999シーズン、第67回全日本選手権では再び村主に競り勝ち2連覇を果たす。1999年アジア冬季競技大会では2位となったが、この年から始まった1999年四大陸選手権で6位に終わり、1999年世界選手権の代表入りを逃した。1999-2000シーズンは不調で低迷、昨年に続き世界選手権に選出されなかった。

§世界選手権優勝
自己推薦入試で早稲田大学に進学、初めて親元を離れて東京での生活を始める。2000-2001シーズンは新横浜のプリンスクラブに在籍し、初めてマンツーマンでのレッスンを経験する。このシーズンから、プログラムの音楽を表現する気持ちが芽生えたという。第69回全日本選手権は2位だったものの、国際大会ではふるわなかった。

2001-2002シーズンからは佐藤久美子に師事。ソルトレイクシティオリンピックの女子シングル日本代表枠は2枠あったが、1枠はグランプリファイナルに進出した恩田美栄が早々と五輪内定に。残り1枠が賭かった全日本選手権では、又しても村主との激闘を繰り広げたが、ジャンプ失敗が響いて総合2位に敗れ、惜しくも2大会連続の五輪代表選出はかなわなかった。但し四大陸選手権では、五輪代表の恩田(3位)を上回り総合2位と健闘した。

2002-2003シーズン、練習拠点を神宮外苑スケート場に移し、振付はニコライ・モロゾフに依頼した。2002年末の第71回全日本選手権で3位になった後、年明けはユニバーシアード冬季競技大会、冬季アジア大会で立て続けに優勝。さらに四大陸選手権では2年連続の2位、初進出のグランプリファイナルでは4位となった。5年ぶりに出場した世界選手権では、SPでスピンに入る前に氷の溝にはまる不運で転倒、さらに肩を脱臼するアクシデントに見舞われたが、スピンをしながら肩をはめ直し最後まで滑りきった。フリーでは3回転ルッツ-3回転トウループ-2回転ループと高難度のコンビネーションを決め、初の入賞となる総合8位となった。

2003-2004シーズンはGPファイナルを含むGPシリーズ4戦全てで表彰台に上がり、全日本選手権3位ながら世界選手権の代表に選ばれた。世界選手権の3週間前、急遽コーチをタチアナ・タラソワに変更。世界選手権はフリーで3回転ルッツ-3回転トウループ-2回転ループ、3回転サルコウ-3回転トウループのコンビネーションジャンプを含む全ての要素を完璧に決め、技術点では6.0満点も獲得して総合優勝を果たし、日本人選手として10年ぶり3人目の金メダリストに輝いた。

実はこの当時、予選直前に左足坐骨を骨折する大ケガを負ったが、軽い肉離れだと思って競技を続けていたという。当時はシーズンいっぱいでの競技引退、プロスケーター転向を決意していたが、大学卒業後もプリンスホテルに所属して競技を続けることになった。卒業論文は「スポーツとマスコミの考察」。元々マスコミが苦手であったが、研究することで取材する側の気持ちが理解できるようになったという。

§トリノオリンピックで日本代表唯一の金メダル獲得
2004-2005シーズン、NHK杯で初優勝。GPファイナルでは自身最高の2位に入る。しかし全日本選手権はSP1位だったが、足の怪我でフリーを棄権。世界選手権に3年連続で選出されたものの、フリーでは必須のアクセルジャンプを跳び忘れるなどで得点が伸びず総合9位に沈んだ。

2005-2006シーズンは中国杯とエリック・ボンパール杯でそれぞれ3位につけたものの、グランプリファイナル進出を逃してしまった。この時は「日本選手3人がグランプリファイナルで表彰台に上がりオリンピック出場枠が埋まったら?」と記者に質問された際、「引退する」と発言していたが、全日本選手権で3位に入ったことで、8年ぶり2回目の五輪出場となるトリノオリンピック代表選出が決まった。

2005年12月、タラソワとの師弟関係を解消する。理由は、タラソワの新採点方式への対応が遅れていたので氷上で直接指導するニコライ・モロゾフについてステップのレベルを上げようとしたところ、タラソワとモロゾフが共同作業を拒んだため。
その後、正式にモロゾフの指導を受けることにし、国内ではこれまで通り佐藤久美子に師事することとなった。加えて、SPとフリーのプログラムを同時に変更した。フリーで使用していた「幻想即興曲」をSPに回し、フリーは2004年世界選手権優勝時にも使用した「トゥーランドット」にした。

トリノ五輪女子シングル(SP:2月21日、FS:2月23日)では、SPでほぼノーミスの内容で3位につけ、荒川・サーシャ・コーエン・イリーナ・スルツカヤの上位3人全員が66点台に乗せ、1点差以内に並ぶ大接戦となった。

フリーではループジャンプがダブルとなった以外は完璧の演技を披露、自己最高得点をたたきだして1位となり、会場の観衆からはスタンディングオベーションの賞賛を受けた。
合計スコア191.34で総合優勝を果たし、アジア選手として五輪フィギュア史上初の金メダル(併せて同五輪日本代表選手として唯一のメダル)を獲得。ちなみに、五輪女子フィギュア史上最年長(24歳)の金メダル獲得でもあった。

荒川 静香1.jpg

ショートプログラム (SP) とフリースケーティング(フリー)で合計7つあるスピンと2つあるスパイラルの全てでレベル4を獲得し、2つのステップはともに事実上最高難度であるレベル3を獲得した。このようにレベルの取りこぼしが1つもなかったのは出場選手中荒川ただ1人であり、また、ISUジャッジングシステム導入後のISU公式試合を通じても初めてのことであった。演技構成点で8点台をマークしたのも荒川ただ一人だった。

トリノ五輪後の世界選手権(3月19日 - 26日)にも選ばれていたが、調整不足のため出場を辞退した(代替選手は恩田美栄)。同選手権終了の次の日にあたる3月27日(月)、仙台市都心部の東二番丁通りにて凱旋パレードが実施され、沿道には約7万3000人の観衆が集まった[43]。同年5月7日、記者会見でアマチュア競技引退とプロ転向を表明。会見の席で「今後は自身の演技力の向上やスケート界を広くサポートしていきたい」と語った。

§プロ転向後
2006年5月8日、自身で企画・プロデュースしたアイスショー「フレンズ・オン・アイス」を開催。同年6月からは「チャンピオンズ・オン・アイス 2006」に、11月にはプロフィギュアスケートの祭典「アイス・ウォーズ」に参加するなど、トリノオリンピックから1年の間に国内外計100公演以上のアイスショーに出演した。

2007年4月学校から高校を卒業するまで練習拠点としていた「アイスリンク仙台」でスケート教室を開いた。7月28日には、長野県南牧村で開かれた日本スケート連盟主催のアイスショー「野辺山サマーフェスティバル・オン・アイス」にサプライズゲストとして出演。
2010年3月19日と21日に米ABCで放映されたスペシャル番組『Thin Ice』(有名スケーターが男女でペアを組み、対戦するという内容)ではステファン・ランビエールとペアを組んで総合3位となったが、視聴者投票では1位、と好評を得た。

現在はプロスケーターとして「プリンスアイスワールド」(メインキャスト)、「スターズオンアイス」日本公演等に出演しながら、毎年「フレンズ・オン・アイス」、さらに不定期ながら「クリスマス・オン・アイス」をプロデュースし、自身も出演している。またフィギュアスケート競技のシーズン中は、解説者としても活躍している。

2011年に石川翔子のフリープログラム「ミス・サイゴン」の振り付けを行った。これは荒川による初めての競技プログラムの振り付けである。

2012年9月23日、日本スケート連盟評議員会で史上最年少の30歳で日本スケート連盟理事に選任された。

2012年10月5日に行われたプロアマ混合の国際大会、第1回メダルウィナーズ・オープンで優勝し初代女王となった。

2014年1月8日、日本スケート連盟役員改選にて史上最年少の32歳で日本スケート連盟副会長に選任された。

2014年4月16日、自身の公式HPで妊娠3か月を公表し、当分の間アイスショーへの出演辞退を表明する。同年11月長女を出産、約1か月後の同年12月、グランプリファイナルで解説者として仕事復帰を果たす。
受賞

§栄典
紫綬褒章

§日本オリンピック委員会
2002年度JOCスポーツ賞 特別功労賞
2005年度JOCスポーツ賞 最優秀賞
2006年度JOCオリンピック特別賞

§その他
宮城県「宮城県民栄誉賞」(佐々木主浩、田中耕一についで3人目)
宮城県利府町「町民栄誉賞」および「スポーツ功績賞」
宮城県仙台市「賛辞の盾」および「特別表彰」
秋田県男鹿市「特別表彰」(父・晃市が男鹿市出身だったことにちなむ)
読売新聞社「日本スポーツ賞 大賞」(2006年度)
バカラ「バカラ・アスリーツ・オブ・ザ・イヤー」(2006年)
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2015年02月04日

世界バレーボール界の美人選手NO.1はトルコ のナズ・アイデミル(Naz Aydemir Akyol)選手です。

世界バレーボール界の美人選手NO.1はナズ・アイデミル(Naz Aydemir Akyol)です。

Naz Aydemir Akyol2.jpg

Naz Aydemir Akyol ナズ・アイデミル
ナズ・アイデミル Naz Aydemir Akyol
トルコ代表でも次世代を担う大型セッターでニックネームはナズ。

国籍
トルコの旗 トルコ

生年月日
1990年8月14日(24歳)

出身地
イスタンブル

ラテン文字
Naz Aydemir Akyol

身長 186cm

体重 68kg

選手情報
基本情報
Team name Akyol
First name Naz
Last name Aydemir Akyol
Age (birth date) 24 (14.08.1990)
Adı Soyadı: Naz Aydemir
Doğum Yeri: İstanbul
Doğum Tarihi: 14.08.1990
Boy/Kilo: 1,86cm / 67 kg
Kulübü: Vakıfbank Türk Telekom
Mevkii: Pasör
Numarası: 17
Eğitim Durumu: İstanbul Bilgi Üniversitesi İletişim Fakültesi Reklamcılık Bölümü Mezunu
Twitter: nzydmr11
Röportaj: Naz Aydemir Röportajı
Naz Aydemir Akyol7.jpg
所属
ワクフバンク・テュルクテレコム
ワクフバンクは2011年、トルコ勢として初めてヨーロッパ王者となった強豪チーム。トルコは2002年から急激な経済成長を続けている新興国であり、同国のバレーボール・リーグ(トルコ・リーグ)も潤沢な資金にあふれていた。

ポジション
S

スパイク
304cm

ブロック
300cm

ナズ・アイデミル(Naz Aydemir Akyol、女性、1990年8月14日 - )は、トルコのイスタンブル出身のバレーボール選手である。トルコ代表。
Naz Aydemir Akyol.jpg
来歴
ナズ・アイデミルは当初スポーツでは陸上競技、バスケットボールを始めた。

2005年からエジュザジュバシュ・イスタンブルのシニアチームでプレイし、2005-06年、2006-07年のトルコリーグで優勝を経験した。トルコ代表でも次世代を担う大型セッターである。2006年に代表へ初選出され、2008年のワールドグランプリで国際大会デビューを果たした。2010年世界選手権では6位入賞を果たした。

2011-2012シーズン強豪クラブの フェネルバフチェ で、欧州チャンピオンズリーグを制覇。自身もベストセッターを受賞。

2012-2013シーズンからワクフバンク・テュルクテレコムに移籍して、木村沙織とチームメイトである。

所属クラブ
トルコの旗 エジザージュバシュ(2005-2009年)
トルコの旗 フェネルバフチェ(2009-2012年)
トルコの旗 ワクフバンク・テュルクテレコム(2012-)

Naz Aydemir Akyol8.jpg

○トルコの旗 バレーボールトルコ女子代表 - 2010 世界選手権
1 チェンベルジ | 2 カヤラルリベロ | 5 デンケル | 7 オネル | 8 トクソイ | 10 ソンスルマ | 11 アイデミル | 12 ギュムシュ主将
13 オズソイ | 14 エルデム | 16 トカトルオール | 17 ダルネル | 19 カンス | 20 グレセン |
監督: ベデステンリオール

○トルコの旗 バレーボールトルコ女子代表 - 2012 ロンドン五輪
2 クズバショウル | 3 ギゼム | 6 ウスルペフリバン | 8 トクソイ | 9 チェンベルジ | 10 ソンスルマ | 11 アイデミル | 12 ギュムシュ
13 オズソイ | 14 デュンダル | 17 ダルネル | 20 ジャンス |
監督: モタ


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