2015年02月08日

カロリーナ・プリスコバがフランソワーズ・アバンダを6-2、6-4で制しチェコは準決勝進出に王手 Fed Cup 2015



女子テニス、国別対抗戦のフェドカップ(2015 Fed Cup)は7日、ワールドグループ1部1回戦が各地で行われ、王者チェコがカナダに2連勝した。

チェコは今回がフェドカップ初出場となったカロリーナ・プリスコバ(Karolina Pliskova)が勝利を収め、準決勝進出に王手をかけた。

世界ランク22位のプリスコバは、対戦した同230位のフランソワーズ・アバンダ(Francoise Abanda、カナダ)を相手に9本のエースを記録し、シングルス第1試合を6-2、6-4で制した。

続くシングルス第2試合では、世界62位のテレサ・スミツコヴァ(Tereza Smitkova、チェコ)が6-1、6-2で同185位のガブリエラ・ドンブロフスキ(Gabriela Dabrowski、カナダ)を一蹴した。スミツコヴァはドンブロフスキから22本のウイナーを奪い、わずか59分で勝利を収めている。

8日の試合では、プリスコバとドンブロフスキ、スミツコヴァとアバンダがシングルスで対戦し、ダブルスにはチェコのデニサ・アレルトバ(Denisa Allertova)とルーシー・フラデカ(Lucie Hradecka)、カナダのドンブロフスキとシャロン・フィッチマン(Sharon Fichman)が出場する。

カナダは全豪オープンテニス(Australian Open Tennis Tournament 2015)でベスト8入りを果たしていたユージェニー・ブシャール(Eugenie Bouchard)が欠場している。

世界ランク7位のブシャールは、昨年の全仏オープンテニス(French Open 2014)決勝で敗れたマリア・シャラポワ(Maria Sharapova、ロシア)にストレート負けを喫し、素晴らしい活躍をみせていた全豪で準々決勝敗退に終わっていた。

一方、チェコはウィンブルドン選手権(The Championships Wimbledon 2014)女王のペトラ・クヴィトバ(Petra Kvitova)が欠場した。

★カロリナ・プリスコバ(Karolína Plíšková,Karolina Pliskova )
カロリナ・プリスコバ Karolina Pliskova

(Karolina Pliskova2.jpg

基本情報
ラテン文字名
Karolína Plíšková

国籍 チェコ

出身地同・ローニ

生年月日1992年3月21日(22歳)

身長186cm

体重72kg

利き手右

バックハンド両手打ち

ツアー経歴
デビュー年
2009年

ツアー通算
7勝

シングルス
3勝

ダブルス
4勝

4大大会最高成績・シングルス


全豪3回戦(2015)

全仏2回戦(2014)

全英2回戦(2013・14)

全米3回戦(2014)

4大大会最高成績・ダブルス


全豪
1回戦(2014・15)

全仏
1回戦(2013・14)

全英
1回戦(2013・14)

全米
1回戦(2012-14)

キャリア自己最高ランキング


シングルス
20位(2015年1月19日)

ダブルス
39位(2015年1月19日)
2015年2月3日現在
Name :PLISKOVA, Karolina

(Karolina Pliskova1.jpg

Age:22 (21 Mar 1992)

Birth place:Louny, Czech Republic

Nationality:Czech Republic

Plays:Right Handed (Double Handed Backhand)
Juniors Profile
BiographyActivityArticlesPhotosGrand Slam SinglesGrand Slam Doubles

Personal details
Age Started Tennis:5
Age Turned Pro:
Coach Name:Jan Bedan
Favourite Surface:Hard
Personal Interests:
Hobbies: Fishing, listening to music, cinema, reading

Ranking
Current Singles Ranking 22
Career High Singles Ranking 20 (19/01/2015)
Current Doubles Ranking 41
Career High Doubles Ranking 39 (19/01/2015)
Singles Year End (2014) 24
Doubles Year End (2014) 46

カロリナ・プリスコバ(Karolína Plíšková,Karolina Pliskova 1992年3月21日 - )は、チェコ・ローニ出身の女子プロテニス選手。これまでにWTAツアーでシングルス3勝、ダブルス4勝を挙げている。身長186cm、体重72kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。WTAランキング最高位はシングルス20位、ダブルス39位。双子の姉であるクリスティナ・プリスコバ(英語版)もテニス選手である。
来歴

4歳から姉クリスティナと一緒にテニスを始める。2010年全豪オープンジュニアシングルス決勝でローラ・ロブソンを破り優勝している。

4大大会では2012年全仏オープンで初出場。2013年2月のBMWマレーシア・オープンで初めてのツアー決勝に進出した。決勝でベサニー・マテック=サンズを 1–6, 7–5, 6–3 で破りツアー初優勝を果たした[1]。

2014年全米オープンでは2回戦で第8シードのアナ・イバノビッチを 7–5, 6–4 で破り初めて3回戦に進出した。3回戦ではケーシー・デラクアに 3–6, 6–3, 4–6 で敗れた。9月のソウル大会と10月のリンツ大会で優勝した。
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2015年01月03日

ベラ・チャスラフスカの復活のキーは「美しさを追求する自由の国日本」への愛である

NHK-BS1で 1月2日(金)午後9:00〜10:49に
「“五輪の名花”チャスラフスカ 栄光と失意の五十年」という放送があった。

ベラ・チャスラフスカ.png

東京五輪の金メダリスト、女子体操のベラ・チャスラフスカ。優美で流れるような演技で「五輪の名花」「東京の恋人」と親しまれました。栄光もつかの間、母国の民主化運動「プラハの春」への支持を貫き通した彼女は、東西冷戦の激流に巻き込まれて壮絶な人生の物語を生きることに――。

 1964年の東京オリンピック。「五輪の名花」と称された女子体操のベラ・チャスラフスカは、優美で、愛らしく、気品に溢れ、しかもダイナミックな演技で日本中を魅了しました。個人総合、平均台、跳馬で3つの金メダル。続く1968年のメキシコ大会でも個人総合連覇を果たし、金メダル4つを獲得します

しかし、その頃祖国チェコスロバキア(当時)で進展していた民主化運動(いわゆる「プラハの春」)が旧ソ連などの軍事介入で鎮圧されると、賛同者の一人であった彼女は、政治的な迫害にさらされます。スポーツ界からは追放され、一切の仕事を与えられず、生活権は剥奪されます。彼女は名を借り変装して、掃除婦の仕事をした時期もあるといいます。それでも、改革路線を支持した「二千語宣言」への署名の非撤回を貫き、信念を曲げることはありませんでした。厳冬の時代は、20年の長きにわたります。

 事態を変えたのは、1989年の「ビロード革命」でした。共産党政権が崩壊したその日、彼女はプラハ中心部のバーツラフ広場に面したバルコニーに立ち、群衆の嵐のような拍手と歓声に包まれます。著者が初めてチャスラフスカを取材するのは、こうして表舞台に返り咲いた彼女がバーツラフ・ハベル大統領の補佐官に就任し、久々に来日した時のことです。そして92年の来日の際にも、また取材のチャンスに恵まれました。

 ところがその1年後、再び運命が暗転します。18歳の長男が、離婚した夫を死に至らしめるという不幸な事件が起こります。以後、彼女の消息は次第に途絶え、著者は何度も接触を試みますが、聞こえてくるのは「精神を深く病み、回復の見込みはない。もう彼女とのコンタクトは終生無理である」といった絶望的な情報ばかり。書くことは「到底不可能だ」と諦めざるを得ませんでした。


ベラ・チャスラフスカの生涯は、輝かしいオリンピックと祖国との確執、長い闘病生活による50年だった。さまざまなことが解決され、健康を取り戻した彼女は、2011年10月に来日を果たすことができたのだ。

ベラ・チャスラフスカ6.jpg

厳しい生活を余儀なくされていたチャスラフスカにとって、東京オリンピックの男子体操で金メダルを獲得した遠藤幸雄は同じ体操選手として尊敬しあい、男女を越えた友情を育んだふたりの交流が一筋の光に感じたようだ。

ベラ・チャスラフスカ 遠藤幸雄.jpg

ある日ベラ・チャスラフスカが遠藤幸雄に質問した。
「其の技はどうしてやるの」すると遠藤幸雄はすぐさまやり方を教えてくれたという。ベラ・チャスラフスカが遠藤幸雄に「競争相手に秘密を教えてマスターされると困るのではないか」というと遠藤幸雄は「今度はそれ以上の技をマスターすればいいと答えたという」
それを聞いてベラ・チャスラフスカはひどく感動したという。
国家的秘密主義のチェコスロバキアと自由の国日本との違いを知らされた思いだったらしい。


かつて日本人が熱狂した美貌の女子体操選手について、様々なノンフィクションが書かれている。彼女が外部との接触を一切絶ち、誰にも会わなくなったことが書かれている。

息子が元夫を殺したと裁判で判決が下りたのだった。そんなこともあり精神的な病で復帰は不可能だと報道されていた。72歳となった彼女を復活させたものは何だったのか。そこには日本の大災害が関係していた。

東京オリンピックで女子体操総合の金メダルを獲得したベラ・チャスラフスカは祖国チェコスロバキアの英雄であった。国の象徴であり誇りであり大スター。当然、次期のメキシコ五輪でも活躍が期待されていた。

だがメキシコオリンピック前、チェコスロバキアの首都プラハは、ソ連軍率いるワルシャワ条約機構軍に侵攻されていた。それに抗すべく自由改革路線(プラハの春)を後押しする『二千語宣言』に署名したチャスラフスカは出国できないのではないかと危ぶまれていた。
ベラ・チャスラフスカ1.png
激動の時代に、彼女は何を思い生きてきたのか
捕まることを恐れ隠れ住んでいたため、やつれ、疲れの見える姿でメキシコにやってきたチャスラフスカだったが、見事な演技で金メダルを獲得する。だが帰国した彼女を待っていたのはソ連の軍事力を後ろ盾にした祖国の共産党からの迫害であった。『二千語宣言』への署名の撤回要求は厳しさを増したが、チャ スラフスカは断固拒絶した。スポーツ関係のみならず、一切の仕事を奪われた彼女は、顔をスカーフで隠し掃除婦として働いた。

1989年、東欧は民主化の波が押し寄せた。ソビエト連邦のペレストロイカに端を発した東ドイツの民主化運動をきっかけにベルリンの壁が崩壊し、翌1990年、再統一を達成東西ドイツが統一化された。チェコスロバキアにもビロード革命がおこり、共産党政権が崩壊した。

チェコで制作されたドキュメンタリー映画「VERA68」を、NHKBS1で来年1月に放送するようだ。
   
1964年の東京オリンピック。日本中が初めてのオリンピックに沸いていた。
「東洋の魔女」女子バレーボールの快挙。
裸足のマラソンランナー、アベベ。円谷の力走。

ベラ・チャスラフスカ4.pngベラ・チャスラフスカ2.jpg

数々の名シーンの中でも、平均台、跳馬、個人総合と3つの金メダルをとった、チェコスロバキアの体操選手、ベラ・チャスラフスカの美しい演技は、ひときわ輝いていた。日本人の心を強く惹(ひ)きつけ、「五輪の名花」と讃えられた。

続くメキシコオリンピックでも4つの金メダルを獲得。
「国民的ヒロイン」として、名誉につつまれた幸福な人生が保証されるのは当然と思うだろう。ところが、栄光の絶頂もつかの間、祖国で始まった民主化運動「プラハの春」への支持を表明したことから、東西冷戦という時代の激流に呑(の)み込まれて行く。
ベラ・チャスラフスカは「二千語宣言」への署名撤回を拒否し続けたので、チェコスロバキアの「正常化体制」時代、ベラは非常に困難な状況に置かれ続けた。

翻弄され、時に抗い、時に絶望の淵に立たされる。
「栄光や名声、花束、世界中の喝采。その後に私はとても深い落胆を味わった。」
そう語る彼女の心の支えとなったのは、実は日本との深い繋(つな)がりだった。

1989年11月、ビロード革命によって共産党体制が崩壊すると、彼女はハベル大統領のアドバイザー及びチェコ・日本協会の名誉総裁に就任した。大統領府を辞した後には、チェコオリンピック委員会の総裁も務めている。

一体、彼女に何が起きたのか。幾多の苦難を乗り越え、5年ほど前に表舞台に再び帰ってくるまでの壮絶な人生を、本人のモノローグを軸に赤裸々にたどったドキュメンタリー映画「VERA68」が、2012年にチェコで公開されていた。 


番組では、今まで8回のオリンピックの実況を担当したNHKの刈屋富士雄解説委員とロス五輪金メダリストの森末慎二さんをゲストに迎えて、50年前を知らない若い世代の人たちにも分かりやすいように、ナビゲーター役をつとめていただくことにした。

日本とチェコスロバキアとの体操を通じた結びつき、チャスラフスカさんと日本との半世紀をこえる絆など、知られざるエピソードや、「ウルトラC」などスゴ技の解説も楽しんでもらえると思う。


☆雑感・一言
なぜベラ・チャスラフスカが復活できたのかという問いには美しさを追求する自由の国日本を愛していたからだと思う。
ベラ・チャスラフスカは体操において技術もさることながら演技の中に美しさを求めた表現者である。
ただ正確な演技だけではなくその人らしい美しさが加えられるべきだとベラ・チャスラフスカはいうのである。
日本人は体操に限らず日常生活の中にさえも「美」を追求する美しい国民なのである。
日常生活の中の「美」を追求し、芸術にまで高めて行ったものの中に茶道があり、華道がある。
手紙の封を切るにしても美しく切りたいという意思が働く国民である。
ビールを注ぐ仕草にしても右手で持ち、左手でそっと支えながらおもてなしのココロを添えてお注ぎするのが美しいマナーと賞賛される。

ベラ・チャスラフスカはただ日本人が刀をくれたりトラックにいっぱいのお土産や手紙をくれたりして自分に親切にしてくれるからだけではなく、ベラ・チャスラフスカがチェコスロバキアには全く感じられない「美を求める自由な国」日本を愛するようになったからだと思う。

其のことにベラ・チャスラフスカが呼び覚まされたときベラ・チャスラフスカの脳裏に改めてスイッチが入れなおされたのである。そしてベラ・チャスラフスカは復活したのである。

もうひとつ感じたことはベラ・チャスラフスカが自分の信念を貫き通したという生き様が素晴らしい。
政治闘争には積極的ではないようだったがベラ・チャスラフスカは「二千語宣言」への署名撤回を拒否し続けたということである。
政治思想としてではなく生活信条として「人間は基本的には自由であるべきである」と思っていたと思われる。其のことを形だけでも否定し署名撤回をすれば自分が自分でなくなると思ったと思われる。
この頑固さがしびれます。
ベラ・チャスラフスカは「二千語宣言」への署名をするときは「何の迷いもなかった」。といいます。
日ごろから自由への渇望が強かったのだと思う。
自分が信念を持って行ったことに悔いなしということでしょう。


番組ではベラ・チャスラフスカの愚痴や恨みなどといったものは一切出てこなかった。
えらいね。
美しすぎる信念の人ベラ・チャスラフスカに栄光あれと賛美を送りたい。

★ベラ・チャスラフスカ(Věra Čáslavská 1942年5月3日- )はチェコスロバキア、プラハ出身の体操選手。(ヴィェラ・チャースラフスカー)

Věra Čáslavská 2.jpg

選手情報
フルネーム
Věra Čáslavská

愛称
オリンピックの名花
東京の恋人

ベラ・チャスラフスカ3.jpg

国籍
チェコスロバキア→ チェコ

生年月日
1942年5月3日(72歳)

生誕地
チェコスロバキアの旗 チェコスロバキア プラハ

引退
1968年

獲得メダル
オリンピック
金 1964 個人総合
金 1964 跳馬
金 1964 平均台
金 1968 個人総合
金 1968 跳馬
金 1968 段違い平行棒
金 1968 ゆか
銀 1960 団体総合
銀 1964 団体総合
銀 1968 団体総合
銀 1968 平均台

世界選手権
金 1962 プラハ 跳馬
金 1966 ドルトムント 個人総合
金 1966 ドルトムント 団体総合
金 1966 ドルトムント 跳馬
銀 1958 モスクワ 団体総合
銀 1962 プラハ 団体総合
銀 1962 プラハ 個人総合
銀 1966 ドルトムント 床
銀 1966 ドルトムント 平均台
銅 1962 プラハ ゆか

◆略歴

チャスラフスカ.jpg

1964年の東京オリンピックで、ベラは人気選手となる。平均台、跳馬と個人総合の金メダルに加え、団体でも銀メダルを手にした。優美な演技は日本において「オリンピックの名花」「体操の名花」と讃えられた。

しかし、彼女のメキシコオリンピック参加は、政治的事情のため非常に危ぶまれていた。彼女は1968年のチェコスロバキアの民主化運動(「プラハの春」)の支持を表明して「二千語宣言」に署名しており、同年8月のワルシャワ条約機構による軍事介入、プラハ侵攻によって身を隠さざるを得なかったのである。

1968年のメキシコ五輪はプラハ侵攻の直後であり、彼女はオリンピック直前にようやく出国を許可された。彼女はこのとき、祖国の屈辱をはね返すために、最高の演技を誓い競技に臨んだと後に語っている。五輪本番は、抗議の意を示すため濃紺のレオタードで競技を行った。不十分な準備の中、圧倒的な強さを見せるが、ゆか競技の判定において、この政治的事情の影響か、金メダルは微妙な判定によってソビエトの選手とダブル受賞となった。
種目別で唯一優勝を逃した平均台のメダル授与式においては、金メダルを獲得したソビエトのナタリア・クチンスカヤ(Natalia Kuchinskaya)の受賞の間、ベラは顔を背けることで抗議の意を示したが、後述する2008年のインタビューにおいて内心は「かわいそうだ思った」と振り返っている。最終的に跳馬、段違い平行棒、ゆかと個人総合で金メダル、平均台と団体種目で銀メダルと、女子体操の6種目すべてでメダルを獲得した。

メキシコオリンピックでの競技が終了してまもなく、ベラは、東京オリンピック男子陸上1500m銀メダリストのヨゼフ・オドロジル(Josef Odložil)と結婚する。

その後もベラは「二千語宣言」への署名撤回を拒否し続けたので、チェコスロバキアの「正常化体制」時代、ベラは非常に困難な状況に置かれ続けた。1989年11月、ビロード革命によって共産党体制が崩壊すると、彼女はハベル大統領のアドバイザー及びチェコ・日本協会の名誉総裁に就任した。大統領府を辞した後には、チェコオリンピック委員会の総裁も務めている。

ベラの引退後から、女子体操界はより若年で小柄な選手たちによるアクロバット的な演技が主流となったが、ベラはこれに苦言を呈することが多かった。

2008年8月にはチェコ主要紙のイドネス(iDNES.cz)のインタビューに応じ、同年の南オセチア紛争におけるロシアの対応を批判した。

日本とのつながり
東京オリンピックに出場した際に、日本のファンが体操競技に詳しいことに驚き、また、滞在中に多くの日本人ファンから扇子、浴衣や日本刀などをプレゼントされたことに感激したことを語っている。それらの贈り物は2013年現在でも自宅に保管してあるという。

2010年、日本国の秋の叙勲(外国人叙勲)にて旭日中綬章を受章。

日本のテレビ番組出演
スター千一夜(フジテレビ、1965年12月24日)

著書
『私は日本が忘れられない』(ベラ・チャスラフスカ述、イルジー・ムク編著。訳:宮川毅。ベースボール・マガジン社)

参考文献
後藤正治 『ベラ・チャスラフスカ 最も美しく』ISBN 4163660208

●ベラ・チャスラフスカと同じく(年も同じ)『二千語宣言』への署名をしたために音楽界を追われた女性にマルタ・クビショヴァーがいる。
マルタ・クビショヴァーはその後ビロード革命がおこり名誉を回復した。
ベラ・チャスラフスカと同じように数奇な運命を辿っている。

★マルタ・クビショヴァー(Marta Kubišová、1942年11月1日 - )はチェコのチェスケー・ブジェヨヴィツェ出身の歌手。

1960年代から音楽活動を開始する。プラハの春およびワルシャワ条約機構軍による軍事侵攻があった1968年に、ズデニェック・リティーシュ(Zdeněk RYTÍŘ)作詞によるチェコ語でカヴァーしたビートルズの"Hey Jude"で知られる


★遠藤幸雄
遠藤 幸雄(えんどう・ゆきお、1937年(昭和12年)1月18日 - 2009年(平成21年)3月25日)は、日本の体操競技選手である。


獲得メダル
日本
男子 体操競技
オリンピック
金 1960 ローマ 男子 団体総合
金 1964 東京 男子 平行棒
金 1964 東京 男子 個人総合
金 1964 東京 男子 団体総合
金 1968 メキシコシティ 男子 団体総合
銀 1964 東京 男子 ゆか
銀 1968 メキシコシティ 男子 跳馬

経歴・人物
秋田県秋田市出身。秋田工業高校から東京教育大学(現筑波大学)卒業。

小学校3年生の時に母親を亡くし、中学1年の冬から養護施設で育つ。中学2年の時、先生の勧めで体操部に入部し、市内大会では数々の表彰台に上がる。

同じ秋田県出身の小野喬を目標に競技を続け、東京教育大学在学時代から体操競技日本代表選手に選ばれてオリンピック、世界選手権など数々の国際大会に出場した。1964年東京オリンピックでは日本選手としては初めてとなる個人総合優勝を果たした。過去2回のオリンピックに僅差で個人総合優勝を逃していた小野は遠藤の快挙を喜び、個人的に遠藤にトロフィーを贈った。遠藤はこのトロフィーを「永遠の記念品」と述べている。

東京オリンピック個人総合の最終種目となった鞍馬を前に、遠藤は9.00を出せば2位のボリス・シャハリン(ソビエト連邦、ローマ五輪個人総合金メダリスト)が最終種目でたとえ10.00を出しても追いつかない絶対的優位を築いていたが、日本悲願の個人総合優勝のかかる重圧の中、会場が凍りつく落下寸前の演技の止まるミスを連発、長い協議の末9.10をマーク。ソ連の執拗な採点に対する抗議も覆らず、遂に日本に個人総合の金メダルをもたらした。
この功績を基にドイツから託された「最も高い成績を残した選手に」と第1回アテネオリンピックの優勝メダルが与えられたが、後にそれは秩父宮スポーツ博物館に寄贈された。以後、このメダルは盗難に遭い、現在も取り戻されてはいない。

東京教育大学卒業後、日本大学に就職し、助手になる。

1998年に国際体操殿堂入り。引退後、ミュンヘンオリンピックでチームリーダーを務めるなど、指導者としても活躍の場を広げた。また日本体操協会では専務理事、副会長を経て協会顧問を務めていた。

長男の遠藤幸一も父と同じ体操選手となり、日本体操協会常務理事を務めている。

日本オリンピック委員会理事も歴任。元日本大学文理学部教授。

1996年に紫綬褒章、2008年には旭日中綬章をそれぞれ受章した。

2009年3月25日、食道がんのため逝去。72歳没。養護施設への寄付を最期まで続けていた。

成績
1960年 全日本選手権 種目別あん馬優勝
1960年8月 ローマオリンピック 男子団体総合金メダル(日本初の男子団体総合金メダル)
1962年 全日本選手権 個人総合、ゆか、つり輪、跳馬、鉄棒優勝
1962年 世界選手権(チェコ・プラハ) 団体優勝、個人総合、ゆか、つり輪、跳馬、鉄棒、2位、平行棒3位
1963年 全日本選手権 個人総合、ゆか、つり輪、跳馬優勝
1964年 全日本選手権 個人総合、ゆか、あん馬、跳馬、平行棒、鉄棒優勝
1964年10月 東京オリンピック 男子個人総合、団体総合、種目別平行棒金メダル、種目別ゆか銀メダル
1965年 全日本選手権 個人総合、ゆか、跳馬、鉄棒優勝
1966年9月 第16回世界体操競技選手権(ドイツ・ドルトムント)団体総合金メダル、個人総合7位、ゆか、鉄棒銀メダル、跳馬4位
1968年10月 メキシコオリンピック 男子団体総合金メダル、種目別跳馬銀メダル

●遠藤幸雄の名言
私はその感動で泣いたのです。
私の涙は 金メダルの涙ではない。
自分に勝てた感動で涙をこぼしたのです。

できない技術ができるようになる。
これがひとつの喜びですね。
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2014年12月14日

可愛すぎるロシアのエリザベータ・トゥクタミシェワが14-15フィギュアスケートのグランプリ(GP)ファイナルで優勝 私17才 おばさんになっても「がんばるわ」


14-15フィギュアスケートのグランプリ(GP)ファイナルは13日、スペインのバルセロナ(Barcelona)で女子シングル・フリースケーティング(FS)が行われ、ロシアのエリザベータ・トゥクタミシェワ(Elizaveta Tuktamisheva)が合計203.58点で優勝を飾った。

2位には合計198.74点でエレーナ・ラディオノワ(Elena Radionova)が続き、ロシア勢がワンツーフィニッシュを果たした。

ショートプログラム(SP)を終えて最下位だった米国のアシュリー・ワグナー(Ashley Wagner)が合計189.50点を記録して銅メダルを獲得し、ロシア勢の表彰台独占を阻止した。

1位 エリザベータ・トゥクタミシェワ (ロシア)
2位 エレーナ・ラディオノワ(ロシア)
3位 アシュリー・ワグナー(アメリカ)
4位には合計180.29点でロシアのアンナ・ポゴリラヤ(Anna Pogorilaya)、5位には合計177.79点で同じくロシアのユリア・リプニツカヤ(Julia Lipnitskaia)が続き、本郷理華(Rika Hongo)は176.13点で6位となった。

SPで首位に立っていた17歳のトゥクタミシェワは、バットワニス・ビーク(Batwannis Beek)とサンドストーム(Sandstorm)に乗せたFSの演技で自己最高となる136.06点を記録した。3度コンビネーションジャンプを絡めて、7つの3回転ジャンプを成功させたトゥクタミシェワは、スケーティング技術や振り付けでも高得点をたたき出した。

トゥクタミシェワは、「今シーズン初めて完璧なスケートができたので、自分でも驚いています。サンクトペテルブルク(St. Petersburg)に戻ってしっかりと休養して、欧州選手権(ISU European Figure Skating Championships)よりも厳しく、楽しく、面白いことになるロシア選手権でしっかりと滑れることを願っています」と語った

リプニツカヤがミスを犯して順位を下げる中、SP3位から順位を上げた15歳のラディオノワも、「SPでのミスを修正できました」と語る中、今月24日から行われるロシア選手権について慎重な姿勢をみせた。

「私はもう若くないんです。もうすぐ16歳になりますが、3回転、3回転ができるもっと若い子たちがいるんです」
すると、ワグナーは「あなたがそんなこと言った日には、私は大おばあさんね」とジョークを飛ばした。

 1位のエリザベータ・トゥクタミシェワ (ロシア)は1996年12月17日(17歳)、2位のエレーナ・ラディオノワ(ロシア)は生年月日: 1999年1月6日(15歳) 、3位のアシュリー・ワグナー(英語: Ashley Wagner、1991年5月16日 - )は、23才でもう「おばさん」なのですね。「でもがんばるわ」

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生年月日: 1996年12月17日(17歳) 17才/南沙織


★エリザベータ・トゥクタミシェワ(Elizaveta Tuktamisheva)
エリザヴェータ・トゥクタムィシェワElizaveta Tuktamisheva
エリザベータ・トゥクタミシェワElizaveta Tuktamysheva
所属 ロシア
生年月日 1996/12/17
出身 ロシア・サンクトペテルブルク
身長 159cm
コーチ スヴェトラーナ・ヴェレテンニコワ、 アレクセイ・ミーシン
自己ベスト 188.85 (13年欧州選手権)
SP自己ベスト 62.04 (11年エリック・ボンパール杯)
FS自己ベスト 131.67 (13年欧州選手権)
過去の主な成績 13年世界選手権10位、13年欧州選手権3位、11年GPファイナル4位、11年世界ジュニア選手権2位、10年ジュニアGPファイナル2位、12年冬季ユース五輪優勝 ほか

<今季の成績>
フィンランディア杯3位、スケートアメリカ4位、ロシア杯4位

<今季のプログラム>
SP=Latin Medley(振付:タチアナ・プロコフィエワ)
FS=マラゲーニャ(振付:ジェフリー・バトル)

<選手紹介>
ロシア選手権2位となった12歳のころから、同い年のソトニコワとともに世界のフィギュアスケート関係者、ファンの間ではよく知られていた存在。3回転+3回転が跳べて、トリプルアクセルも練習してきた、アレクセイ・ミーシンコーチの門下生。昨シーズンは身体が絞りきれていない印象で、どこか演技がぼんやりしてしまったが、ソチ五輪「2」枠の1つをどう手にするのか、注目
基本情報
代表国: ロシア
生年月日: 1996年12月17日(17歳)
出生地: グラゾフ
身長: 159 cm
コーチ: スヴェトラーナ・ヴェレテンニコワ
アレクセイ・ミーシン
振付師: ウラジミール・バルナバ
ユーリ・スメカロフ
元振付師: タチアナ・プロコフィエワ
ジェフリー・バトル
デヴィッド・ウィルソン
ステファン・ランビエール
ゲオルギ・コフトゥン
所属クラブ: Yubileniy Ice Arena
ISU パーソナルベストスコア
トータルスコア: 203.58 2014 GPファイナル
ショートプログラム: 67.99 2014 GP中国杯
フリースケーティング: 136.06 2014 GPファイナル

エリザヴェータ・セルゲーエヴナ・トゥクタムィシェワ(ロシア語: Елизавета Сергеевна Туктамышева, ラテン文字転写例:Elizaveta Sergeyevna Tuktamysheva, 1996年12月17日 - )は、ロシアのフィギュアスケート選手(女子シングル)。愛称Liza(リーザ)。

2014年グランプリファイナル優勝。

名前表記について
メディアではトゥクタミシェワ、タクタミシェワ、トクタムショワなどと表記されることがある。ラテン文字への転写は以前は「Elizaveta Tuktamisheva」が使われていたが、パスポートの更新をした2012年以降は「Elizaveta Tuktamysheva」が使われている.これはキリル文字からラテン文字に変換するのに特定のルールがなく、数パターンの表記方法があることによる。帝政ロシア、ソ連時代を通じてオフィシャルなローマ字表記はフランス式の綴りが採用されていたが、2000年代後半あたりからロシア外務省のパスポート発行システムの名前を管理するソフトがフランス語ベースから英語ベースに変更されたからである。このため、彼女に限らずロシア人のローマ字表記の綴りはパスポート更新を行ったものから順次フランス式から英語式に切りかわっている人が多い。

人物
ロシア連邦ウドムルト共和国のグラゾフで、元スキー選手でサッカーコーチの父と代数学と幾何学の教師の母のもと生まれる。7歳下に同じくフィギュアスケートをしている妹エフゲーニャがいる。

2011年4月上旬に父親が若くして死去。8月からはコーチのアレクセイ・ミーシンの尽力とM・クズネツォフ記念オリンピック基金の支援で教師の母親と小学生の妹をサンクトペテルブルクに呼び寄せ共に暮らすようになった。この移住に伴って課題の提出と検定試験を受けることで進級できる形態の学校に転校。

最も尊敬する選手は三度の五輪メダリストで兄弟子のエフゲニー・プルシェンコ。好きな選手や演技にキム・ヨナと浅田真央、安藤美姫、ジョアニー・ロシェットなどを挙げているが、憧れの選手はいない。

経歴

4歳半頃スケートを始め、地元グラゾフでスヴェトラーナ・ヴェレテンニコワの指導を受けていた。

9歳のときベルゴロドで開催された競技会で優勝すると世界的に著名なコーチのアレクセイ・ミーシンに見出され[7][8]、指導を受けるため2週間ごとに片道27時間をかけ故郷からヴェレテンニコワコーチと共にサンクトペテルブルクへ通うことになった。ミーシンの元ではまずすべての基礎技術を矯正された。

2008年ロシア選手権とロシアジュニア選手権で共に2位。

2009年ロシア選手権ではSP10位からFSで124.57の高得点を得て3位となっている。

2010-2011シーズンからジュニアグランプリシリーズの出場可能年齢に達し参戦。初戦のブラショフ杯およびブラオエン・シュベルター杯で連続優勝を果たし、ジュニアグランプリファイナルへの出場を決める。ファイナルでは同じくロシア代表のアデリナ・ソトニコワに次ぐ2位に入る。初出場となった世界ジュニア選手権でもソトニコワに次ぐ2位となった。

2011年夏にステファン・ランビエールの指導で表現と身体の動きを学ぶ。

2011-2012シーズン、シニアデビュー戦のスケートカナダで初優勝、グランプリシリーズ史上で初めてデビュー戦で優勝した女子選手となった。続くエリック・ボンパール杯でも優勝し、ポイントランキング1位の成績でグランプリファイナル進出を決めた。しかし表彰台が期待されたファイナルではSPでの出遅れが響き、4位に終わった。続くロシア選手権でも、グランプリファイナル同様にSPで出遅れ、最終結果は6位となってしまうが、翌月のインスブルックユースオリンピックでは立て直し、アデリナ・ソトニコワを破って優勝した。世界ジュニア選手権への出場は、新たなプログラムの作成に専念するとして辞退した。

2012-2013シーズン、2シーズン連続でグランプリファイナルに出場し、4位。ロシア選手権ではSPを首位で折り返したものの風邪を引いて棄権も考えたが出場し、初優勝を飾った。[12]シニアのISUチャンピオンシップス初出場となる欧州選手権ではSP4位と出遅れたが、FSで1位と巻き返し、トータルで3位となった。

2013-2014シーズン、スケートアメリカではショートプログラムのトリプルルッツ-トリプルトゥのコンビネーションジャンプで転倒、ロステレコム杯ではフリープログラムでルッツとフリップを転倒するなどしていずれも4位に終わる。またソチオリンピック選考も兼ねたロシア国内選手権ではショートプログラムのトリプルルッツ-トリプルトゥで転倒、フリープログラムではトリプルルッツ-トリプルトゥを成功させたものの、単独のトリプルフリップを転倒した。同世代とジュニアクラスの台頭もあり最終順位は10位に終わり、この時点でヨーロッパ選手権にも派遣されずソチオリンピックの代表入りを逃した。

2014-2015シーズン、チャレンジャーシリーズには3試合出場しいずれも優勝。獲得スコアでは2位以下に50点以上の大差をつけ、シリーズの最高成績者となった。スケートアメリカでは2位、中国杯では3シーズンぶりにグランプリシリーズでの優勝を果たした。グランプリファイナルではショートプログラム、フリープログラムのいずれも1位となり初優勝した。

技術

3回転アクセルを除く5種類の3回転ジャンプを競技会で用いている。また3回転ルッツ-3回転トウループのほか3回転サルコウ-3回転トウループ、3回転トウループ-3回転トウループの、三種類の3回転3回転のコンビネーションジャンプをプログラムに入れることが出来る。ジュニア時代にはフリップジャンプが踏み切りでアウトサイドになる癖もあったが、シニアデビュー以降誤ったエッジでの踏み切りと判定されたことは一度もない。

なお2010年夏の合宿中の練習では3回転アクセルを少なくとも一度は成功させている[3]が、2010年ロステレコム杯エキシビションのオープニングで数回、2011年7月8日に行われたミーシン一門のエキシビションショーで2011-2012のフリープログラムの冒頭で3Aに挑戦するが、全て転倒か不発に終わっており、公式認定や観客の前でのお披露目はまだである。

軽快なジャンプが評価される一方で、リンクの使い方が小さいといった弱点も指摘されており、2012年5月にはカナダへ渡りデイヴィッド・ウィルソンにフリープログラムの作成と指導を依頼。

主な戦績
大会/年

2007-08

2008-09

2009-10

2010-11

2011-12

2012-13

2013-14

2014-15

世界選手権 10
欧州選手権 3
世界国別対抗戦 10
ロシア選手権 10 2 3 3 6 1 10
GPファイナル 4 5 1
GP中国杯 1
GPスケートアメリカ 4 2
GPロステレコム杯 4
GPスケートカナダ 1 4
GPエリック杯 1 2
CSワルシャワ杯 1
CSネーベルホルン杯 1
CSフィンランディア杯 3 1
ニース杯 1 N 1 N 1 J 1
ゴールデンスピン 3
ユースオリンピック 1
世界Jr.選手権 2
ロシアJr.選手権 9 2 4 1
JGPファイナル 2
JGP B.シュベルター杯 1
JGPブラショフ杯 1
J - ジュニアクラス
N - ノービスクラス

詳細

2014-2015 シーズン
開催日 大会名 SP FS 結果

2014年12月11日-14日 2014/2015 ISUグランプリファイナル(バルセロナ) 1
67.52 1
136.06 1
203.58
2014年11月20日-23日 ISUチャレンジャーシリーズ ワルシャワ杯(ワルシャワ) 1
67.83 1
128.83 1
196.66
2014年11月7日-9日 ISUグランプリシリーズ 中国杯(上海) 2
67.99 1
128.61 1
196.60
2014年10月24日-26日 ISUグランプリシリーズ スケートアメリカ(シカゴ) 1
67.41 2
122.21 2
189.62
2014年10月15日-19日 2014年ニース杯(ニース) 1
65.15 1
121.55 1
186.70
2014年10月9日-12日 ISUチャレンジャーシリーズ フィンランディア杯(エスポー) 1
67.05 1
126.26 1
193.31
2014年9月24日-27日 ISUチャレンジャーシリーズ ネーベルホルン杯(オーベルストドルフ) 2
64.94 1
127.71 1
192.65




2013-2014 シーズン
開催日 大会名 SP FS 結果

2013年12月22日-27日 ロシアフィギュアスケート選手権(ソチ) 9
59.81 9
115.78 10
175.59
2013年12月5日-8日 2013年ゴールデンスピン(ザグレブ) 3
58.81 3
110.43 3
169.24
2013年11月22日-24日 ISUグランプリシリーズ ロステレコム杯(モスクワ) 5
60.16 5
111.71 4
171.87
2013年10月18日-20日 ISUグランプリシリーズ スケートアメリカ(デトロイト) 9
53.20 3
123.55 4
176.75
2013年10月4日-6日 2013年フィンランディア杯(エスポー) 6
52.13 2
121.32 3
173.45




2012-2013 シーズン
開催日 大会名 SP FS 結果

2013年4月11日-14日 2013年世界フィギュアスケート国別対抗戦(東京) 10
49.94 8
102.22 10
152.16
2013年3月10日-17日 2013年世界フィギュアスケート選手権(ロンドン) 14
54.72 8
119.52 10
174.24
2013年1月23日-27日 2013年ヨーロッパフィギュアスケート選手権(ザグレブ) 4
57.18 1
131.67 3
188.85
2012年12月24日-28日 ロシアフィギュアスケート選手権(ソチ) 1
69.50 1
127.07 1
196.57
2012年12月6日-9日 2012/2013 ISUグランプリファイナル(ソチ) 5
56.61 2
117.14 5
173.75
2012年11月16日-18日 ISUグランプリシリーズ エリック・ボンパール杯(パリ) 3
58.26 2
121.36 2
179.62
2012年10月26日-28日 ISUグランプリシリーズ スケートカナダ(ウィンザー) 6
55.10 3
112.90 4
168.00




2011-2012 シーズン
開催日 大会名 SP FS 結果

2012年1月13日-22日 インスブルックユースオリンピック(インスブルック) 1
61.83 1
111.27 1
173.10
2011年12月24日-28日 ロシアフィギュアスケート選手権(サランスク) 7
58.32 4
116.08 6
174.40
2011年12月8日-11日 2011/2012 ISUグランプリファイナル(ケベック・シティー) 5
54.99 2
119.52 4
174.51
2011年11月18日-20日 ISUグランプリシリーズ エリック・ボンパール杯(パリ) 1
62.04 2
120.85 1
182.89
2011年10月27日-30日 ISUグランプリシリーズ スケートカナダ(ミシサガ) 1
59.57 2
117.81 1
177.38
2011年10月1日-日 2011年ジャパンオープン(さいたま) - 1
118.59 2
団体




2010-2011 シーズン
開催日 大会名 SP FS 結果

2011年2月28日-3月6日 2011年世界ジュニアフィギュアスケート選手権(江陵) 2
58.60 2
110.51 2
169.11
2011年2月2日-4日 ロシアジュニアフィギュアスケート選手権(カザン) 1
60.96 1
132.60 1
193.56
2010年12月25日-29日 ロシアフィギュアスケート選手権(サランスク) 7
56.30 3
124.41 3
180.71
2010年12月9日-12日 2010/2011 ISUジュニアグランプリファイナル(北京) 2
53.76 2
107.11 2
160.87
2010年10月13日-17日 2010年ニース杯 ジュニアクラス(ニース) 1
50.52 1
104.51 1
155.03
2010年10月7日-8日 ISUジュニアグランプリ ブラオエン・シュベルター杯(ドレスデン) 1
57.35 1
115.43 1
172.78
2010年9月9日-10日 ISUジュニアグランプリ ブラショフ杯(ブラショフ) 4
46.11 1
86.21 1
132.32




2009-2010 シーズン
開催日 大会名 SP FS 結果

2010年2月3日-6日 ロシアジュニアフィギュアスケート選手権(サランスク) 9
54.12 4
104.89 4
159.01
2009年12月24日-25日 ロシアフィギュアスケート選手権(サンクトペテルブルク) 10
48.96 1
124.57 3
173.53




2008-2009 シーズン
開催日 大会名 SP FS 結果

2009年1月28日-31日 ロシアジュニアフィギュアスケート選手権(サランスク) 4
53.26 2
101.88 2
155.14
2008年12月24日-28日 ロシアフィギュアスケート選手権(カザン) 5
49.82 1
110.06 2
159.88
2008年10月15日-19日 2008年ニース杯 ノービスクラス(ニース) 1
45.38 1
81.77 1
127.15




2007-2008 シーズン

開催日 大会名 SP FS 結果

2008年1月30日-2月2日 ロシアジュニアフィギュアスケート選手権(ロストフ・ナ・ドヌ) 15 6 9
118.16
2008年1月3日-7日 ロシアフィギュアスケート選手権(サンクトペテルブルク) 14
35.28 8
84.37 10
119.65
2007年10月18日-21日 2007年ニース杯 ノービスクラス(ニース) 2
36.06 1
75.28 1
111.34




プログラム使用曲
シーズン SP FS EX
2014-2015
ボレロ
作曲:モーリス・ラヴェル
振付:ユーリ・スメカロフ Batwannis Beek
by The REG Project
Sandstorm
by La Bionda
振付:ウラジミール・バルナバ

2013-2014
ラテンメドレー
振付:タチアナ・プロコフィエワ
アディオス・ノニーノ
作曲:アストル・ピアソラ マラゲーニャ
作曲:エルネスト・レクオーナ
振付:ジェフリー・バトル アディオス・ノニーノ
作曲:アストル・ピアソラ

2012-2013
映画『ある愛の詩』サウンドトラックより
作曲:フランシス・レイ
振付:デヴィッド・ウィルソン
アディオス・ノニーノ
作曲:アストル・ピアソラ 黒い瞳
振付:デヴィッド・ウィルソン アディオス・ノニーノ
作曲:アストル・ピアソラ
ベサメ・ムーチョ
作曲:コンスエロ・ベラスケス
キャラバン
演奏:ジャックコスタンゾ
ベサメ・ムーチョ
演奏:ミシェル・ペトルチアーニ

2011-2012[16]
アディオス・ノニーノ
作曲:アストル・ピアソラ ベサメ・ムーチョ
作曲:コンスエロ・ベラスケス
キャラバン
演奏:ジャックコスタンゾ
ベサメ・ムーチョ
演奏:ミシェル・ペトルチアーニ ハーレム
by R.E.G Project

2010-2011
オリエンタル・セレクション
ハーレム
by R.E.G. Project アストゥリアス
作曲:イサーク・アルベニス イン・ザ・クローゼット
曲:マイケル・ジャクソン

2009-2010
ソルヴェイグの歌
『ペール・ギュント』組曲より
作曲:エドヴァルド・グリーグ

2008-2009
ジプシーダンス
バレエ音楽『ドン・キホーテ』より
作曲:レオン・ミンクス 映画『SAYURI』より
作曲:ジョン・ウィリアムズ

2007-2008
白鳥の湖
作曲:ピョートル・チャイコフスキー
posted by kifemale69 at 11:26| Comment(0) | アスリート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする